January 2011
2 posts
管理し切ることはできないから、せめてどこへ向かうかだけでも決めておくのだ。
戻ってくるというか,そういう趨勢が見えるようなタイミングを見計らいたい。ただ受け身に待つばかりで,客足が戻ってきてから腰を上げても手遅れになりま すから。開発っていうのは,今求めれられているものよりも,数年後に何が来るかっていう読みで動きます。モノって作りだすと3〜4年後にようやく世に出せ る,そのぐらいのタイムスパンですから,今求められるものを作る発想だと,その時点でもう時代遅れ,負けてるんです。
http://www.4gamer.net/games/110/G011038/20101219003/index_2.html
December 2010
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総経理が何もかもを兼任しているうちは人が育ちません。育成が遅れると、総経理はいくら忙しくしていても最終的には肝心な「人材」がいなくなります。日系企業で何よりも遅れているのは人材の現地化なのです。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20101215/217550/?P=2&ST=spc_glbl
無尽蔵な食欲に対して身体がオーバーロードするとき、これは不摂生なだけだろうか?それともヒトの限界、不自由と呼ぶのだろうか?そもそも欲が無尽蔵であることが不自由なのだろうか?
#内省と他力本願的アプローチ、どちらが欠けても満足は得られないのだが。
一方、「問い」を共有した場合は、それによって、メンバーの思考を刺激し、新たなアイディアや状況にあった行動を引き出すことが可能になります。マネジャーが、メンバーの創造性や可能性を引き出すような問いの共有を促進すると、個々のメンバーのみならず、チームや組織全体の成長を促すことができるでしょう。
http://ctp.coach.co.jp/coaching/change/applied021.html?utm_source=mail&utm_medium=wc&utm_campaign=576
書かれたものはひどく歪んだ近似であることを忘れてはいけない。近くで見れば直線かもしれないが、離れてそれを適用した時、ようやく乖離を発見し本当の形状に至るのが常だ。
これには時間がかかること、そして死ぬまで本質を見ることは出来ないかもしれないこと、さらには掴んだと思ったものがそうでないということがありうるということを知らなくてはいけない。
そこを支配するのはスキーマ、常識と呼ばれるもの。社会通念的に構成され、長期にわたっては変化しうると考えられるもの。感覚とは分別できるようであるが、完全に断ち切ることは難しい。
これがある故に、会話では当たり障りの無いことしか言えないようなことが起きる。これに支配されてしまっているからだ。
しかし、ただ単にこれを無くせば良いというものではない。これは人を縛るが、片や人を規定しているものである。乱暴な開放は人を人でなくし、そうなればここまで構築したことはおよそ無意味になる、と思わせているものもきっと一種のこれなのであろうけど。無意識と刷り込みは事実より強い。
...
一つ申し上げておきたいことは、私も「ヒト」という枠組みの中からしばらくは、およそ80年ほどだろうが、解放されないだろうと思われる。すなわちそれま ではきっとヒトについてしか、ヒトの目を通してしか見ることは出来ぬ。拡張はもちろんできる。しかしそれに見えぬ限界、遠すぎる限界、そこに達することは決して無いのであるが、を抱えることを私は疑っていない。その外を知ることができるもの(その存在すら私たちは知覚できぬかもしれぬ)を私は羨ましくも思うが、果たしてそれに成り代わることは特に生きる上で価値もなさそうだしやりたくもない。与えられたものがなんであるのか、それをどう用いるのかを熟考するべきである。
こうして生きている限り、自己の完全な客体化は得られないものと思ったほうが良いらしい。
認められさえすれば何だって出来る。協力による力は無尽蔵である。
そうでなくても出来る奴が「天才」であり「狂人」であり、「英雄」であり「独裁者」である。おそらく彼らは認め「させてしまう」のであろうけど。
November 2010
10 posts
マジメさの敗北と愛すべき馬鹿の台東、あるいは論理の衰退と直感の時代と言うべきだろうか?
叫ぶことは嫌われることかもしれないが、叫ばなければきっとその主体は死ぬだろうね。と聞いて、あなたはそれを嫌うことが出来るだろうか?
結局のところ意識は意識として孤独なのだ。他人の心は一欠片も分からない。分かったつもりになってもそれは互者間で同一の物であるとだれが保証できよう?極めて懐疑的な立場に立てば、認知できるもの全ては存在しているのかどうかすら疑わしい。ヒトの間で真に共有できるものは無く、したがって共同体は壊れやすい。だからこそ集団として動くことは難しく、また尊いものである。たとえその集合に含まれる人物がたった二人だったとしても。
夏を求めたところに夏はない。たどり着いたときすでにそこは秋である。
外的な自己と内的な自己の食い違いの解決。
体裁を繕うことに重きを置かざるを得ない状況に踏み込まなければならないことこそ不幸である。
空気を読むということは迎合することではない。くどく言えば、その先を作るところに意識が置かれるべきであり、なぜなら読まれたその場の空気は次の一瞬で価値を失うからだ。
分かれなければ自由に動けないが、分かれすぎては生きることが出来ない。
指針とソリューションのように、細胞とミトコンドリアのように、そして夫婦のように。
どこまで本音で話していいのか、話すべきなのか、それとも立場を作るために話すのか?そんなことをしても楽しくないだろう?
創造とは近似であって、複写では、ない。創造とは神聖な妥協なのだ。通例、うまく行っているときには、考えるより先にリアライズが「自発的」に進む。
http://deztec.jp/x/05/faireal/faireal-2-08-index.html
October 2010
11 posts
私たちは、「体験」そのものから物事を選択し、決断しているわけではなく、体験の「記憶」から選んでいるのです。
http://www.coach.co.jp/view/itoh/2010/10/2.html
当時のIntelは、利益のすべてをCPUから得ていたが、半導体メモリ事業に研究開発費の80%を費やしていた。
ユー氏は述懐する。「これまで多額の資金を投じてきた事業がうまくいかず、見切りを付けざるをえなかったという自責の念を克服し、その後、われわれは将来の礎とすべきプロセッサ事業に全精力を傾けた。それは困難で苦悩に満ちた道のりであったが、同時にわれわれが本来進むべき正しい道でもあった」
http://www.computerworld.jp/topics/mp/121329-2.html
頭が処理すべきことでないことまで頭に回していたってことよねぇ
身体はもっとたくさん物を知っていたというのになー。
将来性なんかを考えるより、長続きすることを考えるより、あなたがやりたいことを探すほうがきっといいものができる。
たとえどれだけ憧れていようと、あなたは誰かにはなれないのだ。トレースしようとする過程で、どうしても齟齬が生じる。あこがれが幾つもあるのならなおさらだ。
だから、あなたが本当に愛せるものを自分で知って、それを守ること、それを良くしてゆくこと、そしてそこからどんな世界を作っていけるのかを考えるべきなのだ。この広い世の中にはきっとそれを理解する、クロスオーバーされる他者はいるはずだから。
ひたすらに受け入れること。思い描ける誰かのために考えること。
意味をなそうとするのではなく、意志を形にするのだということ。
そして、それがほんとうはあなたのためのものであること。
内的なメモを書いてももちろんビジターは増えないが、僕は全く問題にしない。どうせ意味があるのは自分にとってだけだし、自由に湧いて出てくるものをせき止めようとするといずれどこかが破裂するからだ。影響をあまり気にせずにそれらをどこかへ追いやる、若しくは置き去りにするわけだが、それが勝手に流れていってしまうメディアでは多少不安なのでこういう形になる。ある種ミームの飼い殺しなので、ちょっと遺憾ではあるが。
たまにはそこに綴られている同じ言葉が誰かの支えになることを期待したりもするけれど、果たしてそれは副作用なのだ。
それがそれである、ということが明言されることなく伝わること、これが表現の本質である。
あまりにも「知られたい」という欲求は大きすぎる!
5月からのメモ
Fri, 7 May 2010 12:03:42 +0900 彼女たちはそう行動したいだろうと思うだろうか?という見方。 —— Sat, 29 May 2010 11:23:47 +0900 今、目の前にする人を一番大切にできるか? —— Sun, 30 May 2010 13:47:32 +0900 応用が可能であるかどうかが「正しい解答」の一種の指標である。 —— Fri, 4 Jun 2010 12:43:29 +0900 未完成品を恐れないこと。 —— Sat, 5 Jun 2010 19:47:23 +0900 観測対象を壊しちゃいけないよ。 —— Sat, 5 Jun 2010 19:48:11...
小松左京「青い宇宙の冒険」
筒井康隆「旅のラゴス」
September 2010
8 posts
当直の看護師さんはすぐに部屋に来てくれ、先ほどと同様に、てきぱきと処置をしてくれます。
私が、「何度も呼び出してすみません」と言うと、常夜灯だけのほの暗い病室の中で、その看護師さんは私の目を見ながらこう答えたのです。
「大丈夫ですよ。これが私の仕事ですから。少しでも変だと思ったら遠慮せずにいつでも呼んでくださいね」
3日間の付き添いで、看護師さんにそのように言われたのは初めてでした。気疲れしていた私は、その一瞬の会話でぐっと気持ちが楽になりました。
心はそれを意識することによってしか老いない。
1.0 それがあなたにとって大切なフェアリーであればあるほど、むしろ時いたれば、そのフェアリーをきれいさっぱり尊厳死させ、新たに復活させるべきだからである。妖精を真に愛するなら、まさにスピリットを愛するべきで、解釈や注釈が必要なような古くさいむざんな姿をさらさせるな。むしろその妖精に日々常に新しい姿を与えつづけよ。
1.2 それゆえ、ここに、わたしは、ふたたび、おごそかに宣言する。「あなたは、すぐにもいなくなる。『あなた』という意味では、わたしは、ない。『わたし』という意味では、わたしは、ある。」――人間暦第21世紀第1年、名づけられぬ者の名によって語られ、多くの速記者の手を経て記される。
混ぜることがこれだけ危険なことだとは思っていなかったというか、他人のふり見て反省。でも後悔はしません。
理論的に分析するのは辿りつくまでの道のりを確認するのに役立つが、実際に解決することは心でしかできない。
僕の中では4人に何を託していたんだろうか?という問い。
古いものは、それがただ古いから良いのではなく、その時代に最も輝かしいものを築き上げたものだけが、時代を超えてなお存在感を放つのだと思う。
生きているWebsiteと死んだWebsite
結論からいうと、あたりまえだが更新されているかそれが途絶えたかの違いでしかない。
重要なのは、どのような技術を使っていたにせよ、デザインされていたにせよ、情報を伝えるメディアとしてのWebsiteは更新の有無こそが最大の価値であって、いかに美しく見え(る/ていた)にせよ、それは時の河に流されて海の底に沈むのだ。ダイブしてトレジャーハントするのも悪くないが、そこで浦島太郎になりきるのはオススメできない。あんまり村のみんなはやさしくないのだ。(あ、玉手箱は開くことができなくなったファイルとか・・・)
となると、更新速度が落ちないようにしていけば価値低下の問題は解決するわけで、すなわち選別のフィルタを減らして嵩上げしたのがブログであり、さらに文章量を減らしリアルタイム性に特化したのがtwitterである。
...
August 2010
4 posts
永遠性には不完全性を伴うことができる!
結局エゴを捨て去ることは主体を捨て去ることになるし、それは主軸を取り去ることになるよね~という、客観視の根本に対する疑問。
限界は絶対にある。けれどそれは無視できるほど、たどりつくことができないほど、それ自身の中では、はっきりと彼方なのだ。
かたいからのなかからやわらかいあんがとびだしてきて、マシュマロからすっぱいジェルがでてきて、びっくり。のみこんだとき、あなたのこころにあたらしいものがうまれる。あなたしかしらない、けれどつたえなくてはいけないなにか。ふかいみぞをこえることはできないけれど、がけからがけへとことばをかけることはできるのかもしれない。
July 2010
13 posts
「変化」という原理主義はそれ自身が不安定なだけにある種信用できる
比喩的に理論と応用が対応するのは結構珍しいことで、似てるじゃんか、と思われることが細部を見ると違うじゃんということは多い。とはいえ系としての理論がアナロジー的に適用できることを信じている身としては相似を見るだけで結構興奮してしまうタチなので、何が言いたいかってあんまりそれ自身だけの価値を考えて行動するな、と。
ある媒体で出来ることを広げていくことも大事だが、出来ないことを見極めることが最重要。
深く掘った予測パイプラインが吹き飛ぶと極端に効率が落ちる(=のが怖い)Netburstよりも、うまく命令を分散させるCoreの方が、先読み困難な時代の思想的にも合ってるのかもしれないという妄言。
「やられた!」ってときに対抗策を考えておくのも筋だけど、その時に「う~んどーしよっかなー」と思うか、「うわーもうだめだー」かどうかでだいぶ変わってきてしまうと思うんだよね
そこにあるはずのない意味を探しすぎだ!たとえ見つけられたとして、それをお前がものにできるのか?できぬとして、それを嘆くのか?なぜ今持っているものに目を向けようとしない!
安心はただ得るものじゃなくて、作っていきたい