4th
つまり、もうあまりこの頭の片隅で知らず知らずめちゃくちゃにリソースを消費していた「他者の意識仮定とそれに基づくアウトプット調整」のプロセスをかなり沈静化することが(おそらくは)できた。(しかしこれだけ飯は喰うくせに全く良い結果を残さないとは・・・あ、今の俺か)
これのせいで大部分のプロジェクトがめちゃくちゃになった覚えが相当に有る。小学生の時の読書感想文が書けないのもしかり(まぁこれは一定の感想を求めよという課題も悪いとは未だに思ってる)、自由研究が出来ないのもしかり(こんなんでいいのか、という思いの話)、レポートにしろどこをまとめていいのか分からずこれでは読む価値のある物など書けないと思ってやめてしまう、とかいうことが少しだけ良くなるんじゃないかな、とも(相当の楽天的考えだが)思う。
ただ大切なのは、相手を相手として尊重すること。決してバカにしたり、こういう人間なんだと決めつけたりしないこと。受け止めること。分からない時は悩むものだということ。触れても混ざり合うことの無い、二つの独立した人格をきちんと保てること。そういう関係を作っていきたい。
自分が考えている「他人の感情」とかいうのは、結構いい加減なものだったのかもしれない。
だって、本当は分からないんだもの。
ということは、恐れをなして最も害のないように(と自分で思えるように)自分の方を調整していくようになるか、それに立ち向かうかということになってしまうが、後者をとることはできなかった。ということは前者の選択・・・それは結果あまりにも狭くステレオタイプで、(率直な意見を表明したにせよ)他者の総和を満足させることはできないにも関わらず、それが存在するのだとかたくなに信じて袋小路へ一直線に追い込まれてゆく。
ああ、分かった。あまりにも彼と彼女の心の関係が不全だったから、それをどこまで自分が補うことが出来るか、を一生懸命に考えていた、だからずっと他者との関係に関してこういうテンションがかかってしまっていたのか。
感情のままタイプする。
僕にとってメタ認識は「こう考えているのではないのかな」という「仮定」のかたまりでしかなく、本当にそうかどうか、検証なんかしてこなかった。だからここにきてボロっと崩れてしまったのだ。
推測の域をでない物が確定的に取り扱われてしまっていたから、こんなにも僕は有無すら不明瞭な他人の「意見」とかいうものに押しつぶされそうになっていたのだ。
というか、他人から見た自者を把握しただけでそれがメタなのか、と考えると、それはちっともメタなんかじゃなくて、単に外からどう見られているか、とかいうことを捉えているだけだったりした。
というよくわかんないけどすっきりした頭でメモ。リモナーダおいしいです。